社会科学における論争を考える

洞口治夫「天野倫文著『東アジアの国際分業と日本企業――新たな企業成長への展望』を読む――『鍵概念』としての比較優位と競争優位」『アジア経済』49(7):47-61,2008.


天野氏の著書『東アジアの国際分業と日本企業』を洞口氏が徹底批判した書評論文。その論点は
(1)天野の主張は、小島清の長年の主張の再録に過ぎない。
(2)「本来的に2国2財以上の国際貿易の理論として成立する比較優位の概念を、一企業に関する事業分野転換の論理として用いようとしている」(p.50)が、これはおかしい。
(3)実証分析のデータの解釈がおかしい(牽強付会になっている)。産業空洞化を否定しようとしているが、データはむしろ産業空洞化の進行を示している。
(4)誤字脱字誤訳誤植誤表記が多すぎる。著作としての信頼性に疑問あり。


まあまあ面白かったが、羽入辰郎−折原浩論争と比較すると、論争としてのスケールは10分の1以下だろう。

かつてわたしの師匠は、「絶対に(学問的に)人を批判するな」と言っていた。確かにそれは処世術としてはその通りなのだろう。しかし、くだらない本、学問的に杜撰な本を好意的に評価するわけにもいくまい。もしそのようなことをしたら最後、別の学者によって「この本は杜撰だが、その杜撰さを見抜けず好意的な書評を書いた○○も、学問をぜんぜんわかっていない」などと、それこそ笑いものになる可能性だってあるのであって、「ダメなものはダメ」と言わなければならない時もあると思う。また、それがイヤなら、書評など引き受けてはいけない(ただし洞口氏の本書評論文は、依頼ではなくレフェリーの査読を経た投稿である)。

もっとも洞口氏も、天野氏の著書を批判すべきかどうかについてはずいぶんと逡巡したらしく、「熟慮を重ねた末に、本稿を発表することが同じ専門分野を探求する研究者としての責務であると感じた」(p.57)と述べている。実は洞口氏と天野氏は、世代こそ違うものの、かつて法政大学経営学部という職場で同僚同士だったので、逡巡して当然なのである。にもかかわらず、天野氏の著作を一刀両断した洞口氏の問題提起は、人によっては「えげつない」と言うことになるのかもしれないが、わたしはむしろこれに敬意を表したい。なぜならば、洞口氏が述べるように、「健全な論争は学問にとって必要」(p.58)だからである。


そして「論争」(応答がないので、正しくは「論争」ではないが)といえばこちら。
米倉茂 「本邦ケインズ学の貧困:『ケインズ100の名言』の迷言の起点となった『雇用・利子および貨幣の一般理論』の誤訳(下)」『佐賀大学経済論集』41(1):71-122,2008.
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006682936/
末尾付録に注目。