読了(的場『マルクスとともに資本主義の終わりを考える』)

マルクスとともに資本主義の終わりを考える

マルクスとともに資本主義の終わりを考える

的場昭弘マルクスとともに資本主義の終わりを考える』を読了した。じつは、刊行された2015年春に途中まで読んだあと、放り投げてしまっており、ようやく読み終えた(以前に読んだ部分は再読した)。以下で、コメントをはさみながら、内容を整理してみたい。

    • -

本書の前半は、先進国企業による資本の自己運動が、途上国へ地理的に領域を拡大していくときに、何が、どのような論理で起こるのかを、最近の世界政治の動き--とりわけ中東から北アフリカ・サハラでの政治変動(アラブの春を含む)--と絡めて論じている。


資本(先進国の多国籍企業)は、利潤率の傾向的低落に悩まされている。そのためには、新たな活動場所を創出していく必要がある。それは、消費市場としての途上国であったり、原料供給国としての途上国であったりするが、特に中東から北アフリカでは、外資の参入障壁が高いケースが多い。これは、資本にとっては、厄介であり、どうにかしてこの参入障壁を崩す必要がある。

そこで、一見するとすべての階級を代表しているようにみえながら、じつのところ資本の代弁者になっている先進国の政府は、「人権」や「民主主義」を錦の御旗にして、こうした国々のレジームチェンジを図ることで、その経済政策が変更され、参入障壁が下がることを狙っていかざるを得ない。中東から北アフリカ・サハラでの政治変動(アラブの春を含む)とは、このようなものとして理解できる、というのが著者の主張である。

フランス革命が打ち立てた人権宣言には、平等、自由、安全、所有が掲げられている。著者によれば、自由が最も重要になるのは、私的所有の自由の権利を問題にするときであり、マルクスも、自由とは私的所有の権利を保障することだという論理を展開した、という(p.101)。人権とは、本来、生きる権利(生存権)であるが、フランス革命によって「自分の利益を求める権利」として取り違えられ、その取り違えられた「人権」=「自分の利益を求める権利」が、人類の永遠の希望にすりかわった、という(p.112-113)。

したがって、中東での民主化は、人権が実現する過程として喧伝されるが、それは「自分の利益を求める権利」であるために、資本の自由な活動としての参入障壁の撤廃と、多国籍企業の進出を促していくことになる。これがアラブの春の意味である、というのが、著者の中心的なメッセージであると思われる。

別の言い方をすると、主権国家の市場をこじ開けることは容易ではなく、私企業にできることではない。そこで、国家による戦略が必要となる。今日の国家は、資本の利益を代表するようになっており、その国家による途上国市場の「こじあけ戦略」で重要な役割を果たすのが、「人権」と「民主主義」ということばである、という(p.116)。もちろん、今日、人権や民主主義は、戦争を仕掛けることができる大義名分となっていることは、言うまでもない。

著者は、こうした先進国資本と国家による対途上国戦略を、「人権帝国主義」と名づけている。それは、人権という美名に隠れた帝国主義的戦略という意味である、という(p.121)。著者のこうした主張からすると、「保護する責任」というコンセプトも、このよう文脈で考えるべきではないかと思われる。


以上が中心的メッセージであると思われる前半に対して、後半(第4章・第5章)は、すこしトーンが変わり、主に利潤率の傾向的低落に対して、資本はどのような対策を打ってくるかという議論が、マルクスや古典派経済学の論理に基づいて展開される。

そして最後に終章では、価値の分配を問題にしたプルードンと、価値(に応じた分配という考え方)そのものを乗り越えることを意図したマルクスの議論が紹介されている。著者によれば、西欧の社会民主主義政党は、価値形成社会を乗り越えるというマルクスの意図ではなく、プルードン流の価値を正しく再分配するという戦略(再分配戦略)をとっており、この戦略は当初はそれなりに上手くいっていた。だが、後発諸国との市場競争が激化し、また冷戦が終わって資本の自由な移動が始まると、社会民主主義政党は、再分配に必要な経済成長を確保するためにも、資本の海外移転=グローバリゼーションを後押ししていくようになってしまった、という。

西欧にとっての資本の海外移転=グローバリゼーションとは、具体的には、東欧へのEU拡大である。著者によれば、このEUの東方拡大に際しては、西欧が東欧に「人権」と「民主主義」を広めていく、という使命を帯びてもいた。つまり、資本とそれの代弁者となった西欧国家は、EU拡大という資本のグローバリゼーションを進めるに際して、人権と民主主義を錦の御旗にしていた、というわけである。もちろん、右派政党への支持の流出という代償を払いながら・・・。

しかしながら、著者は、プルードンの議論を切り捨てているわけではない。かつてのマルクス主義は、生産手段を個人ではなく中央集権機構たる国家が持てば、その収益は国民に還元される、と考えた(p.214)。だが、プルードンは、国家が所有すれば、こんどはその国家を牛耳る人々の権力が生まれ、うまいくかない、と考えていた(これは、実際のソ連や中国をみれば、プルードンの言うとおりだったことがわかる)。

つまり、所有権を個人から国家に移しただけでは、問題は解決しない。そこでも、支配権力の問題が付きまとうからである。そこでプルードンは、中央集権を否定した社会編成原理のモデルとして、アソシエーション、つまり生産手段を所有する企業に労働者が経営参加することを考えていたのである。ちなみに、こうした考え方の現代的展開が、ワーカーズ・コーポラティブであり、協同組合であり、ESOPであろう。

著者は、今日の資本主義が引き起こすさまざまな問題--資本の暴走、地球破壊、貧富の格差、知識の偏在など--は、中央集権的な社会編成によって起こっており、したがって、民主制がうまく成り立つのはせいぜい2万人規模だと考えていたルソーのように、もっと「小さな世界」を構想し実行していく必要がある、という。

    • -


以上が、著者のメッセージをわたしなりに整理し、コメントを加えたものである。本書は、口語体で書かれているものの、論旨をつかむのはそれほど容易なわけではなく、このように整理することで初めて理解できた部分が大きい。また、もともと口述筆記なのか、変換ミスや誤植がしばしば見られる。「アルジャジーラは1990年の湾岸戦争で有名になる」という記述のように(pp.71-72)、細かい事実関係の誤りも散見されるが(アルジャジーラは1990年にはまだ存在していない)、試論的議論(エッセー)である本書のメッセージからすると、このような指摘は野暮かもしれない。