読了

嶋田義仁(2007)「経済発展の歴史自然環境分析:アフリカと東南アジア比較試論」『アフリカ研究』70:77-89.

アフリカを、アフリカサヘル地域、アフリカスワヒリ海岸、アフリカ大西洋岸部、アフリカ内陸部の4つにわけ、東南アジアと対比させながら、その経済発展を、歴史自然環境から分析した後半部は、興味深く読めた。

ただし、「近代経済学は、個人主義的な利己的倫理を前提にした経済学」だというのは、やや乱暴な感がある。実際には、そんなに単純ではない。いみじくも著者が明快に論じているように、ネットワークや社会資本(「社会的団結能力」)が商業の発展に重要な役割を果たしていることは、じつは近代経済学のなかでも既に常識とされつつある。

また、近代経済学は「『経済的合理性』などの経済的価値を重視する心理的な価値態度が確立するならば、経済発展は可能になるという論理を暗々裏に想定している」と述べられているけれど、この言明にも、違和感を覚える。確かに、著者が通じている「モラル・エコノミー」や「情の経済学」の論理(低開発地域では、農民がモラルや情という非経済的価値にとらわれているので、市場経済が発達しない、という議論)からすると、このような理解が導かれるのかもしれない。

だが、最近の近代経済学では、経済的合理性などの経済的価値を重視する心理的な価値態度は、本来的には地域を問わず発露されるものだと考えられている。また、一見すると、とてもそのような経済的価値を重視しているようには思えない農民も、実際には、きわめて経済合理的な行動をしている、ということが明らかにされてきている(開発のミクロ経済学)。

こうした「近代経済学」の地平から著者のテーゼを照射したとき、問われるべきは、「モラル・エコノミー」や「情の経済学」の論理そのものがはたしてどこまで妥当なのか、ということではなかろうか。また、著者の頭の中にある「近代経済学の暗々裏の論理」が、実のところはウェーバーのテーゼに引っ張られすぎているのではなかろうか、という感も拭えない(この点で、赤羽裕のアフリカ経済論(『低開発経済分析序説』)を思い出させる)。