ケータイ依存の不安症

週末は土日ともに仕事だった。いまの仕事は割と好きなのだが、スケジュールを自分でコントロールできない(相手の都合次第)というのは好ましくないことだ。



西岡氏が、携帯電話嫌いと携帯電話中毒について書いている。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/colCh.cfm?i=t_nishioka67
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/colCh.cfm?i=t_nishioka68

時間があまりないので、ごく簡単にコメントしておくが
ケータイ電話で、「いつでも」「どこでも」「誰とでも」簡単に連絡が取れるようになればなるほど、他者とのつながりが強くなって、急に連絡が取れなくなるとかいう不確実性が減るかというと、実際は「すべて逆」ではなかろうか。むしろ「いつでも」「どんなに相手を必要としているときでも」「どれほど重要な相手とのものであっても」、およそ約束ごとなるものはごく簡単に反故にされ、確実と思えるものが失われることで、生活世界の不確実性はむしろ高まる、という逆説が存在しているように思う。


少し別の角度から言おう。
旧来であれば、容易に連絡が取れないということは、よほどの困難がない限りいったん相手と交わした約束を反故にすることはできない(反故にするのに、かえってコストがかかる)というかたちで、ある種の生活世界の安定性を担保していた。ところが、ケータイが普及することで相手と容易に連絡が取れるようになればなるほど、ごくちょっとした困難や勝手な都合が生じた途端、すぐに相手に連絡し、約束の変更を取り付けることができるようになってしまう。これは誠に便利なようだが、同時にあらゆるものを不確実・不安定にしていく。そして、人間の不安意識を高めている。こうしてケータイに溺れれば溺れるほど、不安が高まるので、絶えざるツナガリを求めるようなる。これが携帯電話依存症のメカニズムである。「ケータイは使えば使うほど人間を不安にさせる」、この逆説を強調しておきたい。



それにしても西岡氏の言い方も気になる。
「このご時世でまだ携帯電話を持つことを毛嫌いする人が多い。もちろん、ご年配の人に多い。」
→すんまんせんなぁ、持ってなくて。ついでに若造ですが、何か。
ちなみに「ご時世で」は「ご時世に」のほうが、日本語としてよろしいかと。