「やらなければならないこと」 vs .「やりたいこと」

自分にとって「やりたいこと」のメインは、「読むこと」と「書くこと」である。本を買うときに必ず「この本を読もう」と思って買っているわけではないが(つまり、通読はしないが資料として必要なので買うという場合がある)、しかしそれでもある一定程度は、一応、「読みたい」と思って買っている。しかしながら残念なことに、「読みたい」と思って買う本は数年前から大きく増えているのに、実際に読める(読めた)本の量はむしろ減少してしまっている。「読みたい本」と「読める本」のギャップが拡大していくことは、まことに欲求不満きわまりないが、こういう状態が、もう何年も続いている。


こうした欲求不満な状態になっている最大の理由は、「やらなければならないこと」 が多すぎるという点にある。そこで、この「やらなければならないこと」をなんとかして減らそうと試みるのだが、下手に減らそうと試みるだけかえって時間がかかったりして、結局「つべこべ言わずにサクサクと片付けたほうが早い」ということになる。つまり「やらなければならないこと」 を処理する能率をアップさせることで、自分の時間を作ろうと試みるわけだが、そうやって仕事をバシバシと片付けていると、「あの人は仕事が早い」という香ばしい評判が立って、「やらなければならないこと」がさらに降ってくるという悪循環に陥っているような気が、しないでもない。こうなると、代替策としては、①「単なるお付き合い」を減らす、②睡眠時間を減らす、など、ぐらいしかなくなってくる。


①は、少しずつだけど、実行できるようになった。以前は、「お誘いを断ったら、嫌われるのではないか」という恐怖心がものすごくあって、あまり関心のもてないお誘いにお付き合いで出席して丸1日潰してしまうことがよくあった。そればかりか、その場で愛想笑いと相手との話題合わせに四苦八苦して疲れたことゆえなのか、翌日に調子が悪くなって、結局もう1日追加的に潰してしまい、都合二日もムダにしてしまったりとかいうバカみたいなことさえあった。しかしそうやって話題合わせに苦労するような相手と厭わず会っていても疲れるばかりで得るところは少ないということがわかるようになったのと、あと現実問題として「やりたいこと」が山ほどあり自分のやりたいことを犠牲にしてストレスをためてまで人さまに嫌われまいと汲々とするほどの時間はないのだということが身にしみるようになってからは、愛想笑いと話題合わせに苦労する相手とはあまり会わないようになった。だから最近プライベートで会う相手は、ほぼもっぱら、こちらが面白いと思える相手か、気の置けない相手のどちらかである。よい意味で吹っ切れたわけだが、これは年齢を重ねることのメリットだろう。


他方の②だが、これは一時的にしか使えない。しかし一時的にしか使えなくても、使わなければならないという時期がある。4年前には大きな仕事を終えた後、休むまもなく、睡眠時間を減らして一気に大量の仕事を片付ける必要に迫られたときがあった。あの頃は1日16時間ぐらい作業に終われていたが、そんなこんなでキャパシティを超えるオーバーワークを半年以上続けたら、やっと作業が終わったその2時間後、まるでその作業が終わるのを待っていたかのように体調が崩れ、1週間寝込んだことがある。そしていまどういうわけか4年ぶりに、大きな仕事を終えた後、休むまもなく、睡眠時間を減らして膨大な量の単純な作業を一気に片付ける必要に迫られており、いただいたメールの返信が滞ってしまっているのだが、返信を忘れているわけではなく返信を書きたいと思っているので、もう少し待っていただけますようよろしくお願いします。


じつは以前、「やらなければならないこと」と「やりたいこと」をある程度一致させることができないかと画策したことがある。原理的には一定程度可能なのだが、「やらなければならないこと」の予算制約がきつくムリだということがわかった。やっぱり「やりたいこと」を本気でやるためには、「やらなければならないこと」を放り出げるのが一番だが、そうなるといずれは霞を食って生きていかざるを得なくなるから、長期的には持続不可能である。「やりたいこと」に心置きなく取り組めるようになるのはいつなのだろう。こんな調子では、人生の秋を迎えた時に「日暮れて、道なお遠し」の心境に追い込まれるのではないかと、今から数十年後のことを本気で心配している。時間に対して恐怖心を持つことなく生きていきたいと願う春である。