読了:進藤榮一『アジア力の世紀』

アジア力の世紀――どう生き抜くのか (岩波新書)

アジア力の世紀――どう生き抜くのか (岩波新書)

新書である。政治・経済の両面にまたがるトピックを扱っている。さらには欧州の経験をアジアに生かすべしとも論じている。したがって、本書の内容に接点のある読者は、それだけ多いはずである。おそらくは、多くの若い学生が、教員に薦められて、あるいはゼミナールなどで読む機会があろうかと思うが、それに値する本だろうか。

本書の論調はリベラルであり、EUに見習うべしというのが基本的な著者のスタンスである。このことについては、賛否両論あろうが、そのことについてはここでは問わない。わたしが問題だと思ったのは、国際政治学者としての進藤氏が、国際経済に関する論述をするとおかしな点がぼろぼろと出てくる、ということである。

なかでも「一番ひどい」と思ったのは、浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率』に対して、次のように述べていることである(p.83)。

農業大国というウソ
 二つ目のウソ、もしくは変貌する日本農業に対する無知は、「日本は世界5位の農業大国」であるという言説にある。その延長線上に、「だから日本農業は、関税撤廃を恐れるに足らず、TPPを進めて農業輸出大国へ転換すべきだ」という、TPP推進論が展開される。
 「ニッポン農業大国」論者によれば、「国連食料農業機構(FAO)発表の数値から導き出すと」日本は国内生産額で、1位が人口大国の中国、2位米国、3位インド、4位ブラジルについで世界5位で、仏・独・英など「EU諸国のどこよりも多い」ことになる(浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』講談社、2010年)。国会のTPP審議過程で、安部首相自らも言及した数値だ。
 しかしこれは、FAOのデータのどこからも導きだされない、虚妄の数値。「農業大国ニッポン」の正体は、図表3-1(次頁)で示されるように、まったく逆の現実を示している。


まず、内容について見ていくまえに、誤記を指摘しておく。「国連食料農業機構(FAO)」というのは適切な標記ではない。正しくは「国連食農業機(FAO)」である。

次に、ここでは、FAOのFAOSTATを用いて、農業生産額のデータ(USドル)を拾ってみよう。浅川氏の本は2010年の3月に出ているので、原稿が書かれたのはおそらく2009年であったと考えられる。そうなると、FAOSTATのラグをかんがみると、浅川氏が執筆した当時の最新データは、2007年だったと思われる。またFAOSTATでは、農業生産額をあらわすデータとして、「カレント・ドル」や「2004-06年のコンスタント・ドル」がある。浅川氏がどれを使ったのかはわからないので、両方で見てみよう。なお、調べ方は、FAOSTATのトップページ->Open FAOSTAT CLASSIC->Production->Value of Agricultural Productionである。


2007年の農業生産額(カレント・ドル)
1位:中国5923億200万ドル、2位:米国2834億6200万ドル、3位:インド2133億2500万ドル、4位:ブラジル1083億9100万ドル、5位ナイジェリア:742億1000万ドル、6位日本:730億600万ドル。

2007年の農業生産額(2004-06年のコンスタント・ドル)
1位:中国4907億9900万ドル、2位:米国2232億1200万ドル、3位:インド1685億1600万ドル、4位:日本798億1300万ドル、5位ブラジル771億5200万ドル、6位ナイジェリア660億6000万ドル。


カレント・ドルベースでみると、日本はナイジェリアに次いで6位だが、その差はごくわずかである。また2004-06年のコンスタント・ドルベースでみると、日本は4位だが、5位のブラジルとの差は、やはりわずかである。「日本はやっぱり5位じゃないじゃん」という指摘はありうるが、FAOSTATは頻繁にデータが更新されているので、浅川氏の執筆時以降にデータが改訂された可能性は十分にある。また、差が小さいことから、おそらく浅川氏の執筆時点では、日本は世界5位の農業生産額だっだが、その後、改訂されて、4位または6位になったのではないか、と考えて差し支えないと思う。

しかし、もっとも重要なことは、この程度のことはFAOSTATから容易に導きだせることであり、「FAOのデータのどこからも導きだされない、虚妄の数値」という進藤氏の難詰は、浅川氏に対して甚だ失礼だろう、ということだ。「ウソ」をついているのは、浅川氏や安倍首相ではなく、進藤氏のほうだ。だいたい、一国の首相が答弁で引き合いに出すということは当然ながら、役人たちがきちんと裏づけをとった上でペーパーを首相に渡しているはずで、役人たちはこういう基本的なことは間違えない。

学術研究に批判はつきものである。しかし、FAOSTATについては、日本語のマニュアルも公開されており、学部生でも使いこなせることができる。きちんと調べもせずに、「ウソ」の「虚妄」だの言って「無知」を天下にさらけ出すのは、ハズカシイ。こんな調子で書かれた本書を、読者は信じられるだろうか?「ここは間違っているが、他は正しい」と思いますか? では、他にも「無知」が窺われる箇所を、お示ししそう。

p.9

経済史家、アンガス・マディソン(ケンブリッジ大学

アンガス・マディソンは、オランダのUniversity of Groningenで長年にわたって研究活動をしてきた人として知られている。ケンブリッジではない。


p.172

12年6月、日中両国は、米ドルを介さずに、直接取引決済できる仕組みを、東京と上海につくることで合意した。
それまで日中間貿易の代金決済について、両国の通貨を直接交換する仕組みがなく、輸出入代金の6割近くは、ニューヨーク連邦準備理事会を仲介して、ドル決済で行われてきた。

通常、日中間の決済は、日中の民間銀行が、米国の銀行に保有しているコルレス勘定を用いてドルで決済され、その際に使われるシステムは、FRSが運営するFedwireである。「ニューヨーク連邦準備理事会を仲介して」云々というこの説明は、誤解を招きやすい。


進藤氏の『現代国際関係学:歴史・思想・理論』は、私も若い時に読んだ。そのとき、多様な国際関係理論に対して実に広く目配りがなされ、しかもそれらが手際よく整理されていることに、感銘を受けたことを覚えている。進藤氏が国際政治学の世界で評価されるべき仕事をしてきたのは、間違いない。そうであるからこそ、「国際経済について論じると、とたんに基本的なミスがぼろぼろ出る」というのは、どういうことなのだろうか、と考え込んでしまう。やはり、「専門外について論じるのは、よくよく慎重でなくてはならない」、という教訓にすべきだろうか。それとも、「進藤氏の書いているものについては疑ってかかったほうが良い」、ということなのだろうか。