読了


現代の世界は、レーニン帝国主義論の文脈から理解されなければならないという、21世紀には珍しい「反時代的」な書。


個別には、興味深い指摘が随所に見られるのではあるが、著者のフレームワークにはどうもいろいろな意味で違和感を覚える。マル経をきちんと勉強したわけではないが、頑張ってコメントしてみよう。


(1)
そもそも「資本主義の最高段階としての帝国主義」というレーニンのテーゼをそのまま受け取ってしまうと、帝国主義後の段階というのは、ありえないことになってしまう。このネックを打破するために生まれたのが現代資本主義論であり、「自由主義帝国主義→現代資本主義」というのが、標準的なマル経の唱える段階区分であったはずだ、というのが私の理解である。となると、現代を帝国主義として理解しようということは、現代資本主義論を捨てよう、ということなのだろうか。それとも、現代資本主義を帝国主義の一時代として規定するべきということなのか。


(2)
グローバリゼーションの捉え方が、納得できない。
帝国主義の最高の段階としてのグローバリゼーション」と言うが、「資本主義の最高の段階としての帝国主義」というテーゼを鑑みると、「資本主義の最高の段階としての帝国主義の最高の段階としてのグローバリゼーション」ということになる。まずこれがよくわからない。なぜ最高の段階のなかに、最高の段階が存在するのだろうか。これを措くとしても最高の段階である、帝国主義にもいくつかの段階があることになるが(帝国主義フェーズ1、フェーズ2、フェーズ3・・・のように)、これら帝国主義の段階論はどのようになっているのだろうか。

また、そもそもグローバリゼーションを経済的事象と見なすのも通俗的・表層的な理解であり、これ自体が棄却されるべきである。このようなアプローチの仕方そのものが、グローバリゼーションの適切な理解を大いに妨げている。

次に、グローバリゼーションとは歴史的進歩の方向であり、これに反対することでその傾向を阻止できるかのように考えることは誤りだとか(94ページ)、途上国を工業化していくことこそが南北間の国家間矛盾の解決にとって基本的な方向だ(95-96ページ)と言い切っているが(第7章も参照のこと)、これはほとんど同意できない。資源の地政学的制約と環境条件の悪化を防ぐ必要性からして、この方向は原理的に受け入れられない。

さらに、「グローバリゼーション論は間違っていた」というが(第7章)、間違っているのは著者のグローバリゼーションの理解のほうである。著者が念頭に置いているような「グローバリゼーション」は、既に学界の第一線からは退けられつつあるものであり、グローバリゼーションの誤れる理解をもって、「グローバリゼーション論は間違っていた」というのは、不適切である。正しくは、「ある種のグローバリゼーション理解が間違っていた」とすべきである。関連して、そもそもグローバリゼーション研究がいっさい顧みられていないことも問題である。


(3)
さらに戦争あるいは紛争の捉え方も、現状にそぐわない。現代世界の戦争は、内戦や非正規戦争が主流であって、国家間戦争は少ない。著者はおそらく、この世界システム周辺部の内戦にも帝国主義の影を見るであろう。もちろん、内戦の背後には、諸外国の影響はある。しかしそれらは、たとえばレバノン商人であったり、アルカイダであったり、ナイジェリアのドラッグ密輸グループであったりする。これらが「帝国主義勢力」であるとは言い得ないだろう。現代を帝国主義の文脈から捉えると、この「冷戦から内戦へ」の移行の背後にある新しい事象への注目が抜け落ちてしまうのである。