梅田望夫「ウェブ社会『大変化』への正しい対応・間違った対応」

梅田望夫講演ログ「ウェブ社会『大変化』への正しい対応・間違った対応」
http://d.hatena.ne.jp/pekeq/20050916/p1
TBは打たないけど、これは読む価値あり。


関連して梅田氏の論考をもう二つ。
「理解しあうことのない『二つの別世界』の予感 」
http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u108.html

閉鎖的な世界に抱え込むのではなく開放すると、無数の人々がインターネット上で力を合わせ、その知が発展していく。だから知は開放したほうが全体の進歩に寄与する。インターネットを空気のような当たり前の存在として育った一九七五年以降生まれの若者たちは、こうした「インターネットの本質」を身体で理解している。

「『学習の高速道路』は良いことずくめにあらず」
http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u101.html



梅田氏の議論のキーワードは「2つの別世界」。これは、インターネットの本質を知る若い世代を中心とする人たちと、インターネットの可能性を想像もできない人たちと、2つの世界に分断されつつあるということを意味している。そしてこの本質を知る世代というのは、「インターネットを空気のような当たり前の存在として育った一九七五年以降生まれの若者たち」だという。

これはかなりよくわかる話である。自分は1974年生まれだけれども、ネットを使い出したのは96年3月とかなり早かったから、「インターネットを空気のような当たり前の存在として」育ってきた世代ではないが、梅田氏のいう「インターネットの本質」をなんとかわかっているという自信はある。だがcutting-edgeな一部の同世代を除くと、同世代とその上の世代は「インターネットの本質」をわかっていない、という気にさせられることが、ときどきある。というのは、こういう人たちは、「知は開放したほうが全体の進歩に寄与する」ということを頭では理解できても、身体では理解していないので、なかなか知を開放しないし、最終的に開放するにしても、その過程でずいぶんと考え込んでしまうのである。


さまざまな「知」のうち、どれが優れていてどれがダメないのかが判断されて不要な知が淘汰されていくためには、常に不特定多数によって判断されていく必要がある。そのためには、「知」が「開放」されて「公開」される必要がある。だが、その「知」にアクセスする者が少ない媒体に「公開」されるのでは意味がない。高度な専門知ならば、専門家向けのjournalに公開するだけでも十分だが、日常知であれば、不特定多数に晒される必要がある。現時点でこれを適えてくれる最右翼はインターネットだろう。
こうした知の進化プロセスは、コンピューターがモジュール化されることによって、それぞれのモジュール内で同時多発的にイノベーション競争が進み製品進化のスピードが早まるということと、本質的にまったく同じである。ボールドウィン=クラークを紐解けばわかるとおり(isbn:4492521453)、この方が圧倒的にすばやい解に辿り着けるのあって、ドッグイヤーといわれるPC産業の変化の速さを支えているのは、この「同時多発的イノベーション」によるリードタイムの大幅削減である。「知は開放したほうが全体の進歩に寄与する」というのは、そのとおりなのだが、「知は開放することによって全体の進歩のスピードがあがる」ということを付言したい。

(追記)
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050808/p1