問題は自民党の負け方、投票率、新政権の優先順位(追記あり)

まもなく第45回衆議院選挙の投票日である。民主党が単独で過半数を獲得するのはほぼ確実なようだ。自分が興味を持ってみているのは、政権が交代するかどうかではなくて、(1)自民党はどのように負けるのか、(2)投票率は7割を超えるか、(3)民主党政権は、何に優先的に取り組むか、である。


(1)自民党の負け方の中身が問題だ
日本の政治システムにとって、中期的に重要なのは、民主党が政権を取るかどうか、ではない。むしろ、数年〜十数年毎に政権交代が起こるという緊張感が現実のものとなり、そのために与野党が、政策の立案とその実現に、日々切磋琢磨していくことが常態化する、というほうがはるかに重要なのだと思う。

市場経済のメリットのひとつは、より優れた仕組みや製品を生み出す企業が成長し、そうではない企業は退場を迫られていくという、進化・イノベーションのメカニズムを内包しているという点にある。つまり競争によって、各企業が切磋琢磨していくことが、市場経済システムの鍵であり、こうした競争環境を維持する上でのルールが独占禁止法である。

日本の政治に欠けているのは、このように複数のプレイヤーの切磋琢磨=政権交代の可能性という緊張感であり、またこれにより、よりよい仕組みや政策がドンドン登場することを促し、それを効果的に実現していくという過程であった。比喩的な言い方をすれば、戦後60年間、日本の政治は独占禁止法違反が常態化していたのではないかとさえ思える。


とはいえ、政権交代のメリットが発揮されるためには前提条件がある。それは、議員(周囲のスタッフ等を含む)が、官僚に頼らずに政策を立案できなければならない、ということだ。民主党にも問題は多いが、それでも自民党より優れているように思えることの一つに、「民主党のほうが、官僚に頼らずに政策を立案できる議員の比率が高い」ということがある。じつは自民党にも「政策通」と言われる人がいるのだが、彼らはじつは「官僚にとって都合のいい『政策通』に過ぎない」ことが少なくない。あるいは、政策通になれない場合、「族議員」という名の特定業界の代弁者になったりする。この政治システムは、欧米へのキャッチアップ過程では優れていたかもしれないが、簡単にパイが大きくならない時代になると、官僚機構の維持と、昔ながらのお得意様=特定業界への過度の配慮というデメリットのほうが大きくなる。


こうした観点からすると、少し考えてみるべきは、今回の選挙で自民党が負けるかどうかではなく、自民党がどのように負けるかである。麻生太郎自民党総裁が、9月任期切れで自民党総裁から引き摺り下ろされることは、誰しも予想がつくが、重要なことは総裁が変わるかどうかではない。むしろ、自民党という政党のガバナンスが、選挙後にどのように変わっていくかである。

すなわち、今回の第45回総選挙では、少なからぬ自民党の大物(派閥の領袖、閣僚経験者など)が落選の危機にあると言われているが、まず派閥というものが機能を低下させていくのは間違いない。また、自民党の「血」がかなり入れ替わっていくはずだし、そうなると議員行動も変わっていくだろう、ということだ。すなわち、支配的な議員行動が、(政策の立案能力などないので)「官僚のシナリオどおりに動く」「特定業界への利益誘導を生業とする」といったものから、「民主党政権を引き摺り下ろすために、より良い対案となる政策を立案する」というものになって行く可能性があるし、そうなってくれないと困る。
第二次大戦後には、戦争中の政治責任者が、東京裁判で責任を問われて政界から追放され、また戦後の財閥解体によって、旧世代の経営者が新世代の経営者に道を譲ったように、つまり政治・経済の両分野でリーダーの交代が起こったように、官僚のシナリオに沿って動く政治家が、官僚に頼らずに政策を立案できる議員にとって代わられることが、中期的に言えば、一番重要なポイントであるべきだし、選挙結果もそのようになるべきではないかと思う。


したがって、今回の選挙によって自民党が大負けするかどうかではなく、それによって自民党の新陳代謝が進むかどうかのほうが大事だ。自民党にも、政策立案能力の高い議員だって多少はいるのだから、そうした議員はなるべく再選されるほうが(惜敗率が高ければ、比例復活もある)、優れた対案が出てくる可能性が高まるという意味で、民主党政権にとっても望ましい(場合によっては、「自民党の対案を丸呑み」することさえ、あって良い)。またひねくれた言い方になるが、民主党が大勝することで、議員としての質に劣る者を大きく抱えるのは、かえって問題だ。小泉チルドレンが大量発生したと思ったら、政権交代でその大半が消えて去り今度は小沢チルドレンが大量に発生したが、議員の全体としての政策の立案能力は一向に高まらないので、「官僚のシナリオどおりに動く」という政治システムは不変――というのでは、何のための政権交代なのかわからない、ということにさえなりかねない。必要なのは、政権交代そのものではなく、それにより、民意の付託をうけないまま政治を操ることで民主主義を形骸化させてきた官僚支配の終焉そのものである。この点については、重要なので、最後の「おまけ」でもう一度触れる。


(2)投票率は7割を超えるか?

日本では、1990年2月18日(日曜日)の第39回総選挙での投票率73.31%を最後に、この19年間、投票率が7割を超えたことはない。1993年の新党ブームを伴った政治改革解散で67.26%、2005年の郵政解散でも67.51%である。
http://www.akaruisenkyo.or.jp/070various/sg.html


ところで、よくマスコミの世論調査で「必ず投票に行くと答えた人が、65%に達した」などという報道がある。だが実際の投票率がこのとおりになるかというと、大間違いで、実際の投票率はこうした調査結果からだいたい10%ぐらい低く出ることが多い。その理由はよくわからないが、おそらく世論調査のサンプルとなった人のなかに、ホントは投票に行くつもりなどないのに、「投票に行くべきというのが世間の正論だから、そう答えなくては」と思って、行くつもりもないのに行くと言うウソをついてしまう人が、一定程度いるからではないかと思う。いずれにしても、経験則から言えば、こういう調査結果の場合、実際の投票率は55%ぐらいに落ち込む。


ところが今次の第45回総選挙では、某テレビ局が「必ず投票に行くと答えた人が、84%に達した」と報道していた。10%ぐらい減るという経験則から言えば、それでも7割を越える可能性が少し出てきたのかもしれない。7割を超えるかどうかは、今回の選挙の一つのポイントだと思う。ついでに言うと、投票率を下げているのは、20代・30代の若年層である。
http://www.akaruisenkyo.or.jp/070various/sg_nenrei.html


投票率の高低がなぜ重要かというと、これが選挙後の政権運営にも少なからぬ影響を及ぼすと思われるからだ。民主党が仮に単独で過半数を取るにしても、それが投票率55%によるものなのか、70%によるものなのかによって、国民の支持の強さが大きく違ってくる可能性が高い。投票率が高ければ高いほど、発足した新政権の支持率そのものも高くなるはずだ。そして支持率が高ければ、政策の遂行もスムーズになりやすい。


(3)民主党の優先順位は何であるべきか
権力の根幹は、人事と予算である。これは洋の東西と問わない普遍的な命題であろう。そして日本の場合、高級官僚の退職後の特殊法人等への天下り(退官者であっても、70歳までは収入を保証)という人事のために、随意契約補助金でメシを食っている特殊法人等を大量に存在させている。これが予算の無駄遣いと、硬直的な予算配分の元凶なのだから、(a)公務員制度改革と、(b)90兆円弱の一般会計のみならず特別会計を含めた総計約210兆円の国家予算の組み替え=無駄遣いの削減と配分方法の変更*1、この二つが民主党にとっての最重要事項となる。ナントカ手当なんぞの支給などはすべて、この公務員制度改革と財政改革の結果としてなされなければ、意味がない。



おまけ:選挙制度改革(1993-1994)、公務員制度改革(2009-20XX?)の次は、何か?
さて、このエントリーでは、議員(周囲のスタッフ等を含む)が、官僚に頼らずに政策を立案できなければならない、ということを強調してきた。これができていないので、民意の付託をうけないまま官僚が政治を操るという、ある種の「官僚独裁」になってしまっているのが日本の政治である。こんなものは、民主主義でもなんでもない。

日本の近年の政治をめぐる改革アジェンダはどのように推移してきたか。まず政治腐敗の高まり(1980年代後半以降)をうけて、1990年代初頭には政治改革が焦眉の課題となった。そして政治腐敗の原因の一因が、中選挙区制にあるということで、政治改革は、小選挙区制を中心とする選挙制度改革として結実した(1994年)。と同時に、小選挙区制では小政党が不利になり二大政党制に収斂しやすくなる結果として、複数のプレイヤーの切磋琢磨=政権交代の可能性が現実化した。

ところが、90年代初頭の選挙制度改革として結実した政治改革は、重要なことを二つ、見落としていた。ひとつは、民意の付託をうけないまま官僚が政治を操るという、ある種の「官僚独裁」を変えなければ、政治は変わらない、ということである。これは官僚による失敗の続出と、にもかかわらず官僚機構は失敗に責任を取らないという問題の顕在化によって、課題としてクローズアップされるようになり、その結果、21世紀になってから公務員制度改革が焦眉の課題となっている。

もうひとつは、せっかく政権交代が実現しても、議員(周囲のスタッフ等を含む)が、官僚に頼らずに政策を立案できなければ意味がない、ということだ。これの解決の方向性はいくつかあるが、(a)政治家産業への参入競争が活発になるようにして、優秀な人間がドンドン政治家になれるようにする、(b)とは言っても政治家一人ができることには限度があるので、有能な人間がブレーンやスタッフとして政治家を支えられるような仕組みを作る、が重要だと思う。

具体的に述べよう。(a)については、民間企業の休職制度がもっと発達する必要がある。現状では、一般人が政治家になろうすれば、企業を退職せざるを得ない場合が多い。だがこれでは、落選したときのコストが高いので、一般人には政治家という稼業への参入が容易ではない。よく「政治家にアホが多いが、そもそもそれを選んでいるのは国民なのだから、結局国民が悪いのだ(民度が低い)」と言う人がいるが、これは間違っている。こういう言明が成り立つのは、政治家産業への参入障壁が低くないといけない。現状では、政治家産業への参入による企業の休職と、政治家産業からの退出による企業への復職が難しいので、一般人が政治家産業に参入することが極端に難しくなっている。この結果、政治という営みに参入できる人が限られてしまっている*2。やはりここは、政治家産業への参入障壁の撤廃が必要だ。つまり、政治家への参入のための休職制度が広がらないといけない。

(b)については、アメリカのように豊富なシンクタンク群が存在し、そこにスタッフがプールされ、またそのスタッフ達が政権交代をうけて、政治任命で官僚機構に入る、という必要性があると思う。民主党は、大臣・副大臣政務官あわせて100名以上が霞ヶ関の各省庁に入ると言っているようだが、できの悪い政治家が副大臣政務官として入るよりも、有能なシンクタンカーや学者等が副大臣政務官となったほうがよほど良いのではないか。

まとめると、政治という営みを根源から捉え直す必要がある、ということだ。政治とは、それに一生を捧げる職業政治家だけに普段はお任せしておき、選挙のときにだけチェックして投票する、というものであってはならない。より多くの人間が、政治家に参入しようと人々が切磋琢磨するものでなければならない。また、政治家を支えるスタッフやブレーンが多く存在しなければならないし、それを可能にする仕組み(野党時代はシンクタンクや大学で勤務し、与党時代は政治任命で官僚機構で勤務する、など)が確立されていないといけない。一握りの職業政治家に委ねるのではなく、多くの人間が人生の一時期に政治家となったり、またはそのスタッフやブレーンとして政治にかかわるような競争的なメカニズムが働くようにすること、すなわち広い意味での「政治産業の参入障壁改革」が必要なのである。本当は、選挙制度改革(1993-1994)が終わったらすぐに、公務員制度改革とあわせて、これに取り組むべきだったのだ。選挙制度改革、公務員制度改革、政治産業の参入障壁改革の三つが、日本の政治を近代化する上での改革アジェンダだったのだと思う。日本の不幸は、良い政治の実現のためにはこの3つがセットなのだということに、大半の人が気づかなかった(気づくのが遅れた)ことにあったのではないか

*1:民主党はこれで約10兆円強の財源を捻出できると言うが、屋山太郎によれば、もっと出てくるのではないか、という。

*2:世襲政治家が多いとかというのはこの影響。また、政治家でなくなると「只の人」になるということは、利益誘導のインセンティブを高めてしまう。