「近代的小説」の終焉、または「現代的小説」の誕生?

「小説」(novel)という文学作品は、すぐれて近代の産物である。というのも、近代的小説なるものは、①個人の感情の内面的吐露(e.g. J・ルソー)、②文通、という2つの契機によって成立しているからである。


こうしてみると、最近、すなわちインターネット時代には、新しい小説(「現代的小説」)が成立する可能性が高まっているのではないか、ということに気づかされる。すなわち、近代的小説の①にあたるものとして、①'個人のwebサイト、2ch、およびブログ(アメリカの「blog」ではなく、あくまでも日本的な「ブログ」)であり、また②にあたるものとしての、②'メール、およびトラックバック、などである。


「ネットは近代的小説とは異なる、新しい小説(「現代的小説」)を生み出すのではないか」という仮説は、既に部分的には実証されているようにも思える。すなわち、作品としては、(あ)『電車男』、(い)『今週、妻が浮気します』、などがあり、また権威付けを果たすもの(賞)として、(う)Yahoo!Japan文学賞の創設(http://bungakushou.yahoo.co.jp/)、(え)「ケータイ小説」の募集(絵文字はお断り「ケータイ小説」、北海道文教大が募集:http://www.asahi.com/life/update/0730/005.html)、などである。


(あ)については、まだあまり騒がれていない昨年夏に一読してつまらないと思ったし、その感想は評判になって書籍化、ドラマ化されてからも変わらない。(い)についての評価も、基本的には同様である。「真剣になってアドバイスする暇人のなんと多いことよ」と思うのみだが、鈴木謙介のいう「カーニヴァル化する社会」、すなわち共同体なき現代社会においては、共同性をフックにした「瞬発的な盛り上がりこそが、人々の集団への帰属感の源泉となっている」ことの一例と考えれば、理解はできるし、否定するつもりもない。

なお「2ch文学」に関して、以下も参照。
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001285.html
http://blog.picsy.org/archives/000160.html


ところで、上に述べたこととは別に、「近代的」小説から「現代的」小説への移行を促しているのではないかと思わせる要素がある。すなわち、20世紀最後の四半世紀頃から、世界的規模で見ても、およそ小説というものの社会的な影響力が失墜しつつあり、小説がもはやごく一部の人々以外には読まれない文学ジャンルとなりつつある、という歴史的現実である。これは具体的にはいくつかにフェーズに細分化できる。


まず第一に、小説なるものがそもそも読者にインパクトを与えなくなりつつある、ということを指摘できる。「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、こうした言葉が一定の説得力を持って各層に広範に受け入れられていたということは、逆に言えば、小説なるものが人間にとって「奇」なるものを構想したり、あるいはイマジネーションを喚起する上でもっとも優れた実験場となっていた、ということを意味している。しかし近年の社会の激変と不確実性の高まりは、「奇」なるものを、小説において描かれるよりもはるかに鋭く現実において出来せしめている。つまり、「事実は小説より奇なり」ということが、ごくあたり前になってしまった。早い話が、「奇」なるものの提示という点において、小説は何の役割も果たせなくなってしまっているのである。
これは社会科学的に言えば、「近代化」が徹底して進行した結果、プレ近代的な要素が一掃され、ポスト近代社会に移行したことを意味しているように思われる。ポスト近代社会においては、「奇」なるものは、小説においてよりもむしろ、現実において、鋭くかつ頻繁にたち現れてくるのである。裏返せば、冒頭でも述べたように、「小説」はプレ近代的な要素を一掃していく過程である近代社会においてのみ成立する時代固有的な文学ジャンルなのであって、プレ近代においてはもちろんのこと、ポスト近代においても成立しない可能性が高い。
こうした、小説の「終焉」を示す優れた例が、『半島を出よ』と題された村上龍によるすさまじくつまらない小説であろう。この作品がなぜ「終焉」を示しているかといえば、5年後という設定にもかかわらず、90年代後半以降に、ジャーナリズム、あるいはジャーナリストによってさんざん試みられてきた近未来シュミレーションのrevised editionという感をまったく拭えないからだ。つまりこの作品は、デジャヴを感じさせるのである。そもそも「小説」(novel)という言葉には「新奇な」「斬新な」という意味があることを思い出せば、この作品がいかに小説として「終わっている」かが理解されよう。


第二に、しかしながら、小説産業というものが確立しており、しかもここに既得権が絡んでいることを指摘しておく必要がある。雑誌『発言者』がリニューアルされるかたちで創刊された『表現者』の創刊号のなかで、誰か(文芸評論家の富岡幸一郎だったと思う)が言っていたことなのだが、小説家の原稿料というものは、いまだに、「原稿用紙1枚につき何円」という形で決まっているために、多額の原稿料を稼ぐために無意味に長く話を引き伸ばすという傾向が強まっているらしい。ただでさえ、小説の可能性が減じている時代に、作家が稼ぐ原稿料のために引き伸ばされたストーリがウケるはずがない。つまり、作家の収入という既得権と、小説が提供するストーリーの面白さとに間に齟齬が生じやすくなっているのが現代だ、というわけである。


おそらく、もう、ドストエフスキーバルザックのような近代的文豪と呼ばれる人種は、出てこないのだろう。繰り返しになるが、これは、近代社会の終焉を意味しているのである。


以下も参照のこと。
北鎌倉清談倶楽部:http://miket.cocolog-nifty.com/comet/2005/01/__3.html