「カルドア」か、それとも「カルドー」か

ニコラス・カルドア(Nicholas Kaldor)は20世紀に活躍した経済学者であり、ジョーン・ロビンソンやミハウ・カレツキらと共に、ポスト・ケインジアンとして学説史に名を残した偉大な人物である。経済学を学んだ者ならば、おそらく一度は名前を見聞きしているだろう。


ところでイギリスには、メアリー・カルドー(Mary Kaldor)という国際政治学者がいる。LSEロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)の教授だが、冷戦時代から欧州の軍縮運動や人権促進運動に積極的に関与してきた活動家・実践家でもあり、90年代には特にコソボ紛争において人権促進の活動を展開してきた女性である。1999年に彼女が上梓したNew and Old Wars: Organized Violence in a Gloval Eraは、冷戦終結後の世界各地の紛争が、往々にして政治的要因よりも、経済的要因(動機)に起因しているものであることを指摘した。同書はその後版を重ねており、邦訳も刊行されている(メアリー・カルドー『新戦争論:グローバル時代の組織的暴力』岩波書店isbn:4000233785))。
http://www.lse.ac.uk/people/m.h.kaldor@lse.ac.uk/


実はこの二人は親子である。つまり、メアリー・カルドーは、ニコラス・カルドアの娘なのである。これは欧州ではそれなりに知られているだろうが、日本ではあまり知られていないようだ。親が「カルドア」、娘が「カルドー」では、気づかなくても当然ではある。しかしなぜニコラスは「カルドア」なのに、メアリーは「カルドー」なのだろうか。二人が親子であるならば、メアリーもまた「カルドア」と呼ばれるべきなのに、なぜ娘は「カルドー」になってしまったのか。


その理由としては、わが国での最初の紹介のされ方が考えられる。日本で最初に翻訳されたメアリーの本は、The Baroque Arsenalだったが(邦訳は『兵器と文明』技術と人間)、このときに著者名は「メアリー・カルドア」ではなく「メアリー・カルドー」とされた。しかも、その主たる読者である国際関係論者は、経済学者ニコラス・カルドアをあまり知らない。だから、Mary Kaldorという名前を見たときに、ニコラスと同じKaldorだ、さては血縁関係があるのでは?という考えに至らなかったのではないか。


いずれにせよ、彼女は日本では「カルドア」ではなく、「カルドー」さんになってしまった。彼女の著作の邦訳としては、『兵器と文明』の刊行直後に、『戦争論と現代:核爆弾の政治経済学』(社会思想社)が刊行され、それから10年以上たって21世紀になってから、上述の『新戦争論』が刊行されたのだが、「カルドー」が「カルドア」に改まる気配は、依然としてない*1。あるいはひょっとして、Kaldorの発音は「カルドー」のほうが正しいのだろうか。そうであるならば、Nicholas Kaldorは「ニコラス・カルドー」と呼ばれなければならないはずである。


ニコラス・カルドアは偉大な経済学者だが、メアリー・カルドーもまた、いまや、米国とは毛色の大きく異なる欧州の国際関係論者のなかで重要な学者となっている。そして自分にとって興味を惹かれるKaldorとは、やはりニコラスではなく娘のメアリーのほうだから、「おまえは経済学から食み出している」と笑われても仕方がないかもしれない。なお2003年にメアリーが上梓したGlobal Civil Society: An Answer to Warは、国際関係論のみならず市民社会論の論者にもしばしば言及される好著である。さらに最近は、Routledgeから人間の安全保障に関する本を刊行している。

*1:ただし、国際経済学を専門としつつも、ナショナリズム研究や国際関係論にも通暁している北大の佐々木隆生氏は、彼女の名前を「メアリー・カルドー」ではなく「メアリー・カルドア」と記している。http://www.econ.hokudai.ac.jp/~sasakit/textword/chap1.doc