読了/三浦展編『下流同盟:格差社会とファスト風土』

下流同盟―格差社会とファスト風土 (朝日新書)

下流同盟―格差社会とファスト風土 (朝日新書)

三浦展の前著『ファスト風土化する日本』では、ジャスコ(イオン)のみならず、郊外の画一的なローサイド店全般と、それによる地域社会の崩壊が問題視されていたのに対して、本書は、イオン(日本)、ウォルマート(米国)、カルフール(仏)という、巨大グローバル流通企業によるファスト風土化(と下流社会化)を各国比較のなかで解明するという構成になっている。


本書による3カ国比較を自分なりにまとめてみると、①ファスト風土化は、やはりアメリカが一番深刻だが、この国には、ウォルマートの反社会性(地元商店街の破壊、低賃金、など)を問題視する潮流も確実にあって、全米各地でウォルマートに対する反対運動が起きているし、実際にウォルマートの進出阻止に成功を収めているところもある、②フランスでも、カルフールに代表される郊外の巨大小売店が問題になっているものの、比較的都市計画によるコントロールが利いており、都市中心部での商店街の破壊は、それほどは生じていない、③日本では、西友に資本参加したウォルマートは、成功を収めていないものの、ウォルマートにそっくりの「スーパーセンター」なるものが、イオンによって、とりわけ東北地方にドミナント的に出店されており、ウォルマート的なものが実質的に出現しつつあるのだが、こうした巨大ショッピングセンターの出店に対抗する動きは、依然としてきわめて弱いままである、ということになるだろう。ただし、ウォルマートの労働者はきわめて賃金が低く、その少なくない部分が、フードスタンプ(政府が低所得世帯に支給する食事券)に依存しているワーキング・プアであるのに対して、イオンは、その地域でもかなり高い賃金を払っているという大きな違いがあるし(実際、あるイオンの関係者は、わたしに「出店先の地元の人に、『イオンで働いているうちの娘は、父親の私よりも給料が高い』と感謝されることもあるんだよ」と語っていた)、環境に対する取り組みにも積極的であるなど、ウォルマートとは社会に対する向き合い方に雲泥の差がある。


しかし、そうはいっても、やはり郊外の巨大小売店の出店そのものには、あまりにも問題が多い。このように記すと、「郊外の巨大小売店では、安くてよいモノが手に入るのに、なぜ、高くて誰も見向きもしないような品物しか置いていない、いわば営業努力というものをおよそしていない駅前商店街を、わざわざ守らなくてはならないのか」という批判があるのだが、郊外の巨大小売店にも問題は多い。だいたい郊外の巨大小売店は、都心部から離れた場所に立地しているから、クルマがないとアクセスできない。しかるに、子どもや老人など、交通弱者はアクセスできない。これからますます高齢社会が進み、老人になったら自動車免許を返上すべきだと言われている時代に、こういうことでいいはずがない。しかも、公共交通機関ではなく、自家用車で客を集めるのだから、環境にもものすごく悪い(電車よりもバス、バスよりも自動車のほうが、環境への負荷がかかる)。だから、別に景観の破壊とか、画一化とか、商店街の衰退による社会性や公共性の減退といった、美的・社会的問題を持ち出さなくても(これらも、ものすごく大事な問題だけれども)、郊外の巨大小売店を批判することは十分に可能なのだ。


さて、こうしてみると、①「クルマ社会」と「ウォルマート化する社会」は実はセットであり、より正確に言えば、「ウォルマート化する社会」は「クルマ社会」(または「モータリゼーション」)という前提があってこそ、初めて成立する病理である、また②一人あたりの二酸化炭素の排出が世界で最も多いのがアメリカである理由は、クルマがないと買い物にも行けないという社会の「ウォルマート化」によるところも大きいのではないか、ということがわかる。「クルマ社会」と「ウォルマート化する社会」がセットになっているがために、アメリカの一人あたり二酸化炭素排出量は多いし、またそれゆえに、この国は地球温暖化対策にきわめて消極的になってしまうのだろう。


これに対して日本の場合、ダイヤモンドシティ(イオンと三菱商事が二大株主)でさえ、近くの駅などからのシャトルバスによるアクセスも提供しているので、自動車でしかアクセスできない、ということはないようだ。でもこれは、ウォルマートとイオンの企業姿勢の違いというよりも、単純に日米の人口密度や国土構造などの違いによるものだろう。そういう意味では、日本は、特に都市部では、アメリカほど社会のウォルマート化(イオン化?)は進まないのかもしれない。とはいえイオンは、都心よりも郊外、大都市圏よりも地方での出店が多いので、あまり安心はできない。


本書を読んで、もう一つ気づかされたことは、巨大小売多国籍企業に対する学術的な分析と批判の蓄積が、いまだきわめて不十分であり、この点が今後深められなければならないだろう、ということだ。多国籍企業に対する批判と分析自体は、もう何十年も前からあるけれど、今までの多国籍企業論は、反グローバリゼーション論でもそうなのだが、「いかに途上国の製造現場において、安価な賃金で労働者を搾取しているか」みたいな論調が多くて、生産主義的だったように思う。もとより多国籍企業現象が顕著に検出されるようになった1960年代以降、多国籍企業の業態とはまずもって製造業であり、当時はサービス業は多国籍化が進んでいなかったのだから、ある程度は致し方ない部分もある。とはいえ、いまや、Fortune誌が毎年発表しているGlobal500(世界の巨大企業500社のリスト)のランキング1位は、GMでもフォードでもエクソンモービルでもなく、ウォルマートなのである。
そうであるにもかかわらず、小売多国籍企業の分析があまり進んでいないのは、多国籍企業の分析と批判を積極的に手がけてきたマル経において、消費の分析が弱いためだろう。アジアにおけるサービス多国籍企業の実像に迫った、関下他『サービス多国籍企業とアジア経済』でさえ、小売業に関する分析は、わずかに川端基夫の「日本小売業の多国籍化プロセス:戦後における百貨店・スーパーの海外進出史」だけである。製造業ではなくサービス業、とりわけ小売多国籍企業――ウォルマートカルフール、イオン、イケア・・・――に対する分析と批判の深化が、多国籍企業論の領域において、望まれているように思う。