読了(杉浦『トランスナショナル化する世界』)

トランスナショナル化する世界―経済地理学の視点から

トランスナショナル化する世界―経済地理学の視点から

期待はずれ。勉強になる箇所がないではない。しかし、不満のほうが大きい。幾つか記しておきたい。

第一に、誤字や誤植が多い。もうちょっと丁寧に日本語を書いて欲しい。


第二に、何を言っているのか、何を言いたいのか、理解に苦しむ箇所がある。一つ目の例。

 それでは、このような新たな体制の設計について重要な点はどのような点であろうか。
(中略)
 第3には、新たなシステムを、空間経済システムの制御として捉え、複雑系に基づく空間経済システムを、既存のモデルに組み込むことである。

(同書、p.133)
新たなシステムを、「空間経済システムの制御として捉え」るとは、いったいどういうことなのか?逆に、「空間経済システムの制御として捉え」ないとは、どういうことなのか、まったくイメージができない。「既存のモデル」とは何のことなのか。「複雑系に基づく空間経済システム」とはいったい何なのか。キャッチーな流行言葉を使ってみせるばかりで、言葉が浮ついていて、論述の中身がない。

同様のことは、p.121でのソロスの「再帰性(reflexivity)」の説明についても言える。著者は、「再帰性(reflexivity)」を、認知機能と操作機能の干渉作用のことだとソロスが呼んでいる、と述べているが、この説明は、受け入れがたい。人間によってなされる対象への認識と、その人間による認識こそが対象自体を変化させてしまうことが、A・ギデンズが提示した「再帰性(reflexivity)」の理論である。これを、ソロスも引き継いでいることを指摘しておきたい。

二つ目の例。次の記述も、ほとんど理解できない文章だ。

ソロスは、金融市場を、ある種の均衡へと向かう物理的で客観的な過程としてではなく、再帰性に基づく歴史的な過程として理解することが必要である、と説く。しかし、人間が、観察者であるとともに、同時に、観察される対象の一部分でもあるということは、共時性によるところのほうが大きいといえよう。互いの認識と思惑が相互の(引用者注:ママ)干渉しあうのは、歴史的過程というよりは、共時的存在であることによって引き起こされるのである。「グローバル都市」の発展も、「国家の退場」という現象も、あるいはまた、市場化原理による金融危機の発生も、この認識と思惑の相互干渉による再帰性が深く関わっているものとみなせよう。そして、空間という枠組みの中での、共時的存在の間の再帰性についての学こそ、地理学にほかならない。

(同書、pp.121-122)

おかしなところは幾つもある。「しかし」とは、逆接の意となる接続詞である。それなのに、この文章では、「しかし」の前では金融市場の話をしている一方で、「しかし」の後では、人間がどうたらこうたらと言っていて、前後の文章の間で、ちっとも話が逆説になっていない。また、辞書によれば、「共時性」とは「同時性」とも言い換えられるが、そうなるとこの2つ目の文章は、人間は観察者であると同時に観察される対象の一部分にもなる、という意になる。これが「金融市場」とか「再帰性」とは何の関係もないことは、明らかだ。そして、極めつけは、「共時的存在の間の再帰性についての学」というものイメージすることはできない、ということ。地理学って何なの?

三つ目の例。
モジュール化(モジュラー化)についての記述も、製造業製品については良いにしても、それを金融業に応用した記述になると、どうも突っ込みどころが増えてくる。


第三に、事象の評価や時代認識が甘い、ということ。たとえば、2009年5月刊行ということで、リーマンショックから世界金融危機にいたる衝撃に過度に引っ張られすぎの記述、世界認識になっている。また、デルのPC事業やノキアへの好意的な記述も、本書刊行直後からのデル社のPC事業の不振とそれをうけたMBOや、スマホの台頭によるノキアの携帯電話事業の衰退からして、むなしく映る。



本書の著者は、アメリカの大学で博士号(Ph.D)を取った慶應義塾大学教授。