読了/下川浩一『「失われた十年」は乗り越えられたか』

「失われた十年」は乗り越えられたか―日本的経営の再検証 (中公新書)

「失われた十年」は乗り越えられたか―日本的経営の再検証 (中公新書)


日本経済における「失われた10年」とは、バブル崩壊後の1990年代初頭から2000年代初頭にかけての10年前後を指す、というのが、ごく一般的な理解であろう。したがって、本書のタイトル『「失われた十年」は乗り越えられたか:日本的経営の再検証』と、以下の目次を見た読者は、こう思うはずである。すなわち、本書の主題は、90年代から00年代にかけて日本経済が経験した長期低迷とその後の回復の位相を、自動車、家電・電子、流通など各産業毎に解明することなのだろう、と。

序章 「失われた十年」とは何であったか
第1章 激変する経営環境
第2章 迷走した企業経営
第3章 「失われた十年」を乗り切った自動車産業
第4章 自ら不況を招いた家電・電子産業
第5章 大きな曲がり角に来た流通産業
第6章 アジア新時代に活路を求める日本企業
終章 「失われた十年」の教訓と日本企業の今後


ところが本書では、90年代〜00年代論は大して展開されていない。第3章は「『失われた十年』を乗り切った自動車産業」と銘打ちながら、かの有名なMITのIMVプロジェクトの研究成果に基づいた1980年代の世界と日本の自動車産業論が、延々と続く。さらに著者が80年代にクライスラーを訪問したときのエピソードなど、「失われた10年」の検証に何の意味があるのかよくわからない記述も、見られたりする。本来、主題であるはずの1990年代の日本の自動車産業の進化論は、こうした叙述がひとしきり済んだあとになってはじめて展開されるのである。

次に第4章は「自ら不況を招いた家電・電子産業」とあるので、モジュラー化のトレンドを無視してハイエンド製品に特化しようとしてきた日本家電・電子産業の1990年代の戦略ミスが論じられるのかと思いきや、ここでも、80年代までにいかにわが国家電・電子産業が世界のテレビ生産をリードしたかとか、日本の半導体産業はいかに1980年代に成功し世界の頂点を極めたかとか、韓国はいかにして80年代までに電子立国を遂げたかとか、「失われた10年」の前史(前フリ)が長々と続く。第5章の「大きな曲がり角に来た流通産業」も同様で、戦後の流通業態の変化、とくに百貨店とGMSの興隆の歴史が、これまた長く語られている。そしてそのあとにようやく、90年代論が論じられるのだが、いかんせん紙幅の関係もあり、さらっとした記述で終わってしまっている。


こんな調子で、「失われた10年」以前の歴史的な議論が長すぎるので、結局のところ、本来の本書の主題であるはずの、90年代から00年代にかけての各産業毎の位相は、きわめて不十分にしか解明されていない。しかも論じられている内容はといえば、すでにどこかで論じられている程度のものを基本的に超えていない。とくに第6章「アジア新時代に活路を求める日本企業」では、中国経済についても論じられているが、安室憲一の中国ビジネス・電子産業論、藤本隆宏アーキテクチャ論、さらに森谷正規中国経済論などを読んでいれば、新味はない。


それから、著者は、平成不況が長引いた理由を「世界経済の構造変化が進むなかで、大競争の時代と言われる競争環境に日本の経済運営がついていけず、そのために必要な改革が遅れた」(p.13)からだとか、「平成不況が起こった当初、政策当局に、世界経済の構造変化を見誤った、政策判断の誤りがあったことは明らかである」(p.15)などと言っているが、基本的に同意できない。90年代以降いくつもの政策判断の誤りがあったことは事実だと思われるが、それらはいずれも財政金融政策に関してであって、「世界経済の構造変化」と「政策判断の誤り」とは、基本的には関係がないと思う。また「世界経済の構造転換」と「平成不況」も、基本的には関係がないと思う。


いずれにせよ、タイトルと内容が大きく乖離しているのみならず、その内容に新味がないという意味で、本書を評価することはできない。たとえば平成不況論としても、はるかに優れた先行研究書がたくさんあるなかで、他の本を押しのけてわざわざこの本を読むべき積極的な理由はほとんど何もない。著者は、自動車産業の研究者として多くの優れた業績を残してきた老大家だが、なぜこのような物足りない著作を上梓してしまったのだろう。読者としてはとても残念である。