メモ(中国農業)

○紀元前4000〜3500年頃の長江下流域での水田址からは、当時の稲作は面的な広がりを持たず、農耕では生活が安定せず、狩猟採集と並行していた可能性が、指摘されている。その他の水田址では、粗放な水田から、灌漑施設をともなう水田への段階的移行が認められた。当時の日本は縄文時代に相当するが、中国の農耕開始から、日本への稲作技術の伝播までに時間がかかったのは、中国の稲作技術の発達が緩慢だったため。日本への伝播は、一般には中国の山東地域からとされるが、長江下流域から直接伝播した可能性もある(中西聡「東西文明の興隆」金井雄一・中西聡・福澤直樹編『世界経済の歴史』名古屋大学出版会、より要約)。


黄河中流域では、黄河が黄土による肥沃な土壌により、長江流域に先行して文明が発達。ただし、少ない降水量と低い気温の関係で、稲作には適さず、雑穀類が栽培された。降水量が少ないため、灌漑用の水路を建設する必要から、早くから国家が形成された。水路の完成とともに広大な農耕地が成立。紀元前3000〜2000年頃の平糧台遺跡では、排水施設や手工業設備の存在が確認される(中西聡「東西文明の興隆」金井雄一・中西聡・福澤直樹編『世界経済の歴史』名古屋大学出版会、より要約)。


明代、清代は、農業生産力の上昇が進展。江南地方(長江下流域)では、水車の普及によって、また華北では鑿井灌漑の普及によって、耕作面積が拡大肥料では、大豆などの絞り粕の使用が、土地生産性を上昇させ、各種の商品作物栽培(綿花、桑、麻、茶、葉タバコなど)が新たな輪作体系のもとで可能になった。これに伴い、米・麦などの穀物の商品化が進展し、長江中流域の穀物が、江南地方の商品作物栽培地域に供給された。こうして、中国農民が収益性の観点から商品作物栽培に傾斜することで、過小の土地に最大限の労働・資金を投入するアジア的農法が確立(萩原充「中国」長岡新吉・太田和宏・宮本謙介編『世界経済史入門」:欧米とアジア』ミネルヴァ書房、より要約)。