読了/ヘルド+アーキブージ『グローバル化をどうとらえるか』

グローバル化をどうとらえるか―ガヴァナンスの新地平

グローバル化をどうとらえるか―ガヴァナンスの新地平

LSEミリバンド講座での講演論文集。圧巻は第1章「貧困と不平等の世界的な広がり」(ロバート・ウェイド)。注目されるべき論点を整理しておくと:
さまざまな根拠から判断するに、
世界銀行の統計は貧困人口を過小評価しており、世界の極貧人口は1987-98年の間に増えている、
自由主義者が主張するように世界の不平等が縮小しているとは言えないことはほぼ確実であり、「世界の所得分配が平等化していることは否定できない事実だ」というのはまったく不誠実、
③「グローバル化が貧困を削減する原動力であることは明白」という世界銀行の主張は、「GDPに占める貿易の変化」を「グローバル化」の尺度としている。このため、統計対象期間の初めである1977年の時点からすでにGDPに占める貿易の割合がきわめて高く、自由な貿易を行っている国が「グローバル化が不十分な国」と分類されることもある一方で、1977年の時点では貿易の対GDP比がきわめて低かった国が「グローバル化の過程にある国」に分類されているが、このような諸国を「グローバル化諸国」と呼ぶのはおかしい。貿易の対GDP比が当初から高く上昇傾向にない国が除外されることは、天然資源の輸出に依存しており経済成長率の低い小さな貧困諸国を排除することになるが、こうした国々を「グローバル化諸国」に加えれば、グローバル化した諸国ほど最良の成果を残しているという命題は疑問視されざるを得ない、
④近年すぐれたパフォーマンスを残している中国とインドは、実際には、グローバル化論者が主張するような自由主義貿易と投資政策とは異なる政策によって、貿易の対GDP比を上げているのであり、貿易の自由化を開発の処方箋に位置付ける世銀の主張の論拠は、多分に疑わしい、
購買力平価で換算した平均所得が5000ドル以下の国では、貿易開放度が上昇するにつれて不平等が広がっている、
⑥多くの高付加価値型の経済活動は、規模の経済やネットワーク効果の影響をうけやすいために、いずれの企業も低賃金地域へは移転しないか、移転するとしても低付加価値の組み立て事業にとどめ、暗黙知や社会的交流に依拠する事業は、中心地域に留め置かれるままとなっている。さらに、ラインから情報処理へ、製造業から金融業へという資本主義の変容によって、スキルと教育が重視されるようになっており、これらを欠くと不利な状況に置かれるようになっているので、開放的な市場が機能するようになったからといって、格差が縮まるとは言えず、むしろ分極化を招きかねない、
などである。

つまり、貧困人口は世界銀行の指摘より多くおそらくこの20年間に増えている、現行の為替レートで測っても購買力平価で調整された所得で見ても、やはり世界の不平等は広がっているので、グローバル化や自由な市場関係の拡大が、世界を正しい方向へ導いているとは判断するわけにはいかない、ということになる。かなり衝撃的な論文。


その他の論文のエッセンス:
第2章のスティグリッツ論文は、本当にベーシックな講演録という感じで特に見るべき論点はない。
第3章のグッディン論文は、規範理論の観点から、国際条約レジームやNGO、資源税(南極や公海などにおける地球資源に対する国際税)、トービン税などを駆使して、グローバル・ジャスティスを追求するべきことを主張。
第4章のラギー論文は、市民社会組織(CSO)の台頭、企業の社会的責任(CSR)への関心とその追求、労働や環境、公正貿易に対する認証制度、国連のグローバル・コンパクトなどに、グローバルな公共領域の広がりとグローバル・ガバナンスの萌芽が見られると指摘。
第5章のコヘイン論文は、テロリストや原理主義者などの存在から明らかなように、共通の価値と制度が普遍的には容認されていない現状では、普遍的なグローバル社会は存在しておらず、また、コスモポリタンな理念は実現されていないと主張。また、現に作動している実態の外部で影響を受けている人々に対するアカウンタビリティを、「外的アカウンタビリティ」とするならば、多国籍企業ローマ・カトリック教会、大衆型宗教運動、テロリストのネットワーク、(アメリカのような)強い国家などは、この外的アカウンタビリティを欠いており、これらに対する外的アカウンタビリティをもっと強くしなければならない、特に、強い国家が世界政治のアカウンタビリティの脅威となっている、と指摘。
第6章のヘルド論文は、第二次大戦後の数十年間における多国間主義と国際法の展開から、コスモポリタンな基礎が既に構築されており、これらをベースにして、コスモポリタンな原理と制度がさらに根付いていく時代状況にあることを力強く主張。



それにしてもこの本、誤字脱字や誤訳が目に付く。この監訳者の翻訳に問題が多いことは以前にも記したことがあるけれども*1、懲りずにまた幾つか拾ってみると、まず編者序文で「Anthony Giddens」(原著p.viii)が「アンソニー・ギディンズ」になっているし(邦訳p.iii。正しくは「アンソニー・ギデンズ」)、執筆者紹介のところで、「Robert E. Goodin」(原著p.viiii)が「ロバート・グーディン」とあるが(邦訳p.iv)、これは「ロバート・グッディン」と表記するのが通例だろう。「Robert O. Keohane」(原著p.x)も同様に、「ロバート・コヘーン」(邦訳p.viii)ではなくて「ロバート・コヘイン」と表記するのが通例。人の名前の読み方は、本人に聞いてみないとわからないこともあって、その人の名前がまだ日本でそれほどなじみがない場合は、刊行物によって表記が揺らいでしまうのだが、そのうち段々統一が取れてくるのであり、Giddensはギデンズ、Keohaneはコヘインで定まっていると思う。さらにデヴィッド・ヘルドのDemocracy and Global Orderの邦訳タイトルが『デモクラシィと世界秩序』と表記されているが、正しくは『デモクラシーと世界秩序』。勝手に出版物の表記名を変えてはいけません!・・・。

そしてようやく本文に入るわけだが、いきなりイントロダクション(邦訳では「序章」)の冒頭5行目、「entrepreneurs in transition economies」(原著p.1)が「転換期経済の企業家」(邦訳.p1)になっていて、もう頭がクラクラしてくる。transition economiesというのは、(かつて社会主義体制であったが冷戦終結後に資本主義に転じた、旧ソ連や東欧などの)「移行経済(国)」のことだから、「転換期経済の企業家」ではなくて、「移行経済国の企業家」と訳さなければならない。「転換期経済」では何か時間的に特定の時期を指していることになるが、ここは空間的に特定の地域を指しているのであり、完全に意味が違ってしまっている。それから第6章の冒頭ページ、「the Age of Discovery」(原著p.160)が「発見の時代」(邦訳p.158)と訳されていて、これも戸惑う。「the age of discovery」ならばこの訳でよいが、ここは「the Age of Discovery」と大文字になっているから、ある特定の時代を指しているのであり、これは「大航海時代」と訳すべきだろう。そもそも「発見の時代」では何のことかわからない・・・。

こういうわけで、原著を邦訳で読めることはとてもありがたいのだが、ところどころに首を傾げざるを得ない表記がちらちらと出てくる本になってしまっている。本書は章毎の分担翻訳であるが、上記に指摘したところは、すべてある特定の訳者(敢えて名前は挙げないが)によるものだ。頼みますよ、ホント。