学問の多様性

東電の事故後、メディアでお名前をよくお見かけする方々のなかに、京大原子炉実験所の今中哲二助教と、小出裕章助教がいる。今中氏は1950年生まれ*1、小出氏は49年生まれである*2。いわゆる万年助教(昔は万年助手と言った)と称される方々である。お二方は30年以上前から原発批判の論文を共著で発表してきた*3。いわば同士であろう。


ちなみに、彼らの所属する「放射性廃棄物安全管理工学研究分野」*4では、現在教授の小山昭夫氏も、1973〜2000年まで30年近く助手をつとめ、2000年に助教授に昇進している*5から、3人とも非常に長らく干され続けてきた方々と言って良いだろう。


もとより熊取(原子炉実験所)にアンチ原発の万年助手がいるのは、京大では割とよく知られた、というか有名な話ではあった。


失礼を承知で申し上げれば、彼らの業績のなかにある論文の少なからぬものは、原子力村のなかではとても「業績」として評価されるとは思えない『技術と人間』といった雑誌に掲載されている。干されてきた一因は、おそらくこのあたりにあったのではないか、ということは素人にも推測がつく。


今中氏も小出氏も、そう遠くないうちに定年退職を迎える。わたしが心配なのは、この種の、アンチ原発の、しかし社会に問題を語りかけることのできる原子力研究者が、業績主義のなかで今後、熊取に、そして日本にいなくなってしまうのではないか、ということである。はっきり言おう。今中氏や小出氏のような業績では、かつてならばいざ知らず、現下のレフェリー付き論文しか認めない業績至上主義の公募市場のなかでは、とても勝ち残ることなどできないのではないか。原子力村の研究者にとっては、こういう研究者が淘汰されてしまうことは良いことなのかもしれない。だが、学問には多様性があったほうがいい。特に原子力村の研究者は閉鎖的で都合の悪いことには目を瞑る傾向があるので、チェックアンドバランスという意味でも、この分野にはなおのこと多様性が必要である。何でも一色に染めるのは、かえって危険なのである。だから、仮に原発を維持するという意思決定をしている社会であっても、アンチ原発原子力研究者がもしいなくなってしまったら、チェックが効かなくなりかねないとか、緊張感を欠きかねないという意味で、それは非常に大きな損失なのだと思う。