読了/クリステンセン『明日は誰のものか』

明日は誰のものか イノベーションの最終解 (Harvard business school press)

明日は誰のものか イノベーションの最終解 (Harvard business school press)


この本は、多くの人が読むべきであり、また少なからぬ人にとっては、読まなければならない本である。いまや、「モジュール化」の概念を知らずして企業経営や現代経済を語ることはできないのと同じように、「破壊的技術」「破壊的イノベーション」の考え方を知らずして、企業経営や現代経済を語ることもまたできない。経営戦略やイノベーション、技術経営、MOTなどを専門とする者にとって本書は必読書となろうが、のみならず雇用、労働、国際経済、開発経済、産業政策、ベンチャービジネス、国際経営、アジア経済など、さまざまな領域の人もまた読むべき本である。それほどまでに本書の射程は広く、また深い。確固とした根拠のあるデータがなくても、またそのようなデータが無意味になる大規模な変化が生じる場合でも、優れた理論を使いこなすことによって、産業の将来の変化を的確に見通すことが十分に可能なのだということを、本書は実感させてくれる。原著のタイトルはSeeing What's Next: Using the Theories of Innovations to Predict Industry Changeだが、これに偽りはない。しかも、その射程範囲となる産業はと言えば、単に営利企業が鎬を削る世界だけではなく、教育や医療といった世界にも及んでいるのだから、著者が提示するシンプルな理論ツールの適応範囲には、脱帽せざるを得ない。


本書は、なぜあるすぐれた企業が突然崩壊するのかを理論的に解明した『イノベーションのジレンマ』(isbn:4798100234)の続編という位置付けであり、前著において提示されていた理論ツールに、更なる進化を確認することができる。そのためもあって、読むためには幾つかのコツがある。

第一に、最低でも『イノベーションのジレンマ』を読了しておく必要がある。理論ツールの進化とは、具体的には「破壊的技術」「破壊的イノベーション」の考え方の進化である。だから、まずこの考え方を知っておく必要がある。いきなり本書を読むべきではない。自分は『イノベーションの解』は読まずに本書を読了したが、可能ならば『イノベーションの解』にも目を通した上で本書を読むほうがよいだろう。
第二に、事前に「モジュール化」の考え方も知っておきたい。『イノベーションのジレンマ』と比較して、本書では、モジュール化の考え方がバンバン出てくる。だからモジュール化について最低限の知見がないと、理解が滞りがちになると思われる。
第三に、本書の前半部分は、まとまった時間をつくって読むべきだ。邦訳で500ページを超える本書だが、前半五分の二は理論編に、後半五分の三は実証編になっている。このうち前半については、細切れの時間ではなくまとまった時間をつくって集中的に読まないと、理解がスムーズに運ばない。対して後半の実証編は、気軽に読み飛ばせる。ビジネスパーソンならば、まず前半五分の二の理論編を週末に一気に読み、その後の実証編をウィークデーに1日1章ずつ電車のなかで読むとよいだろう。自分は、理論編を電車のなかで細切れの時間を使って読んだが、このような読み方はよくない(通読後、もう一度理論編を読み直すことになってしまった)。


本書では、『イノベーションのジレンマ』と比較すると、「破壊的イノベーション」の意味に幅が出ている。前著では、もっぱら「技術」に焦点があてられていたが、本書では単に技術のみならず、「教育」という制度における破壊的イノベーションが取り上げられている。つまり「破壊的イノベーション」というコンセプトは、広く社会一般に適用可能な概念なのである。余談だが、この教育における破壊的イノベーションを取り上げた第5章は、大学経営に関心のある研究者にとって必読だろう。個人的には、日本の下位大学の学生は、「満足度過剰」の顧客になっている可能性があると思う。


イノベーションを扱った経営学の書籍としては異例のことであるが、本書では、開発経済学に対する示唆も与えられている。一般的に開発経済学は、経済発展の主体である企業の成長戦略を正面からは取り上げようとしないという困った傾向がある(地域研究のほうには、まだ多少は、企業の成長戦略を取り上げようとする気運がある)。しかし、電子レンジの生産を開始してから10年余で世界最大シェアを握った中国・ギャランツに見られるように、近年の中国の経済発展の一部は、まさに「破壊的イノベーション」の好事例に他ならない(安室憲一『徹底検証 中国企業の競争力』isbn:4532310555)。これまでの開発経済学・経済発展論では、破壊的イノベーションを活用した途上国の世界市場参入戦略が議論されてこなかった。本書をきっかけにして、今後こうした議論が深められることを期待したいし、おそらく今後、「破壊的イノベーション」を一つの軸としたキャッチアップ戦略が、経済発展論において掘り下げられるようになるだろう。



このように高く評価されるべき本ではあるけれども、問題がないわけではない。まず第一に、本書で提示されている考え方の一部は、実のところ、経済学の世界で精緻に示されている知見を援用したに過ぎない。相互依存型の製品では(垂直)統合企業が有利で、モジュール化された製品では、スペシャリスト企業が有意だというクリステンセンの話は、別に新しい知見でもなんでもない。製品や部品の相互依存関係によって企業組織の境界が決まる(そしてその関係が、国境を越えれば、多国籍企業分析になる)という議論は、企業経済学や組織経済学、取引費用経済学などでは既にお馴染みのもので、その一端については、ラングロワ=ロバートソンの『企業制度の理論』(isbn:4757121253)などでも伺い知ることができる(もっと遡ることも可能)。『企業制度の理論』は、原著刊行が1995年だから、『イノベーションのジレンマ』の刊行よりも前である。

第二に、クリステンセンが本書で提示している「経営資源・業務プロセス・価値観の理論」(RPV)によれば、既存企業は、参入企業とは異なる価値観をもっており、それゆえに破壊的イノベーションを取るに足らないものとして無視してしまう傾向がある、とされている。だがRPV理論とて、クリステンセンのオリジナルとは言えないように思われる。というのは、企業は特定のケイパビリティと慣行を保持しており、これらは慣性となるから、類似した変化(コンピタンス拡張的なイノベーション)に対応する際には経験として有利に働くものの、類似していない変化(コンピタンス破壊的なイノベーション)に対応する際には、このケイパビリティと慣行ではうまく処理できず、むしろこれらが不利に働くというのが、ラングロワ=ロバートソンの『企業制度の理論』において提示された見解(第6章)であるが、クリステンセンのRPV理論は、このラングロワ=ロバートソン議論の焼き直しに思えるからだ。言うまでもなく、コンピタンス拡張的なイノベーション≒持続的イノベーション、コンピタンス破壊的なイノベーション≒破壊的イノベーションである。

またクリステンセンは、既存企業が破壊的イノベーションに対応するためには「分離独立した組織を設立」しろ、ただしスピンアウト企業が意味をもつのは、(既存)企業にビジネスチャンスをものにするだけのスキルがないか、あるいは組織内部でビジネスチャンスをものにしようという意欲がない場合だけに限られると言っているが(158-159、390ページなど)、ラングロワ=ロバートソンの『企業制度の理論』では、コンピタンス破壊的なイノベーションへの移行期間が長く、なおかつ初期の費用格差が大きい場合、既存企業が最終的には市場から退出を余儀なくされるとしても、既存のイノベーションにしがみつくことが、企業の選択肢として合理的であることが論じられている(第6章)。このように見てくると、クリステンセン信者は、ラングロワ=ロバートソンの『企業制度の理論』にも手を伸ばしたほうがよいと思われる(但しこの本は訳文がひどい)。


このように、クリステンセンの中心的な理論は、先行研究の焼き直しと思われる側面もないわけではない。しかし「ケース」「ケース」とケーススタディばかりが蔓延る経営学の世界のなかで、理論的なパースペクティブによって現象を説明しようと志向し、のみならず産業の将来を展望していることは、高く評価されてよい*1。また自分はいままで、IP電話というのは「破壊的イノベーション」だと思っていたのだが、本書を読めば、これはむしろ誤解であることがわかる。IP電話はなぜ、破壊的イノベーションにはならず、むしろ既存企業による「取り込み」がなされるのか。本書を読めば、その理由が、「バリューネットワーク」にあることが理解されよう。



なお、本書には訳語の間違いが多い。45ページ、アメリカの通信企業verizonが「ベリソン」だが正しくは「ベライゾン」、294ページ、raytheonが「レイテオン」だが正しくは「レイセオン」、380ページ、格蘭仕が「ガランツ」だが正しくは「ギャランツ」、同じくgrameenが「グラミーン」だが正しくは「グラミン」だろう。また注の44ページ、「インターナショナルレベニューサービス」とあるが、これは原語はたぶんInternal Revenue Serviceであろうと推測される。つまりInternalをInternationalと勘違いしたとしか思えないのであるが、「インターナショナルレベニューサービス」では何のことかわからないということぐらい、担当編集者が気づかないものか。正しくは(米国)「内国歳入庁」と訳されねばならない。
本書にはこの種のつまらないミスが多い。12ページ、ハーバービジネススクールの「リム・クラーク」は、正しくは「キム・クラーク」だろう。それはクラークに失礼だって。90ページ、「バリューチェーン革命(VCE=Value Chain Evolution)の理論」とあるのは、「バリューチェーンの進化理論」だろうに。なんでEvolutionが「革命」になるのか。Revolutionとうっかり間違えたという言い訳が聞こえてきそうなのだが、Value Chain Evolutionは、本書で頻出するキー概念であり、他のところでは「バリューチェーンの進化理論」となっている。にもかかわらず27ページでは、「バリューチェーン統合(VCE)理論」という表現がある。訳語はきちんと統一しろ。訳し分ける必要があるなら(ないと思うが)、一言、断り書きが必要だ。
一事が万事、こんな調子である。すぐれた原著をこういういい加減な訳文で世に送り出してしまったランダムハウス講談社の担当編集者二人には、激しく反省を求めたい。何も編集担当者も原著を読むべきだなどと言っているのではない。そうではなくて、この程度のミスは、原著を読まなくても日本語を読みさえすれば十分にわかるのであり、そうであるにもかかわらず、こうしたいい加減な訳文の書を世に送り出すのは、編集者として恐ろしく怠慢でありまた原著者と読者に対して失礼だと言っているのである。一つの優れた書を世に送り出す上での責任を、訳者だけではなく編集者も自覚すべし。


(追記)
同書のアマゾンのブックレビューには、さして見るべきものがない。注目としては、「弥生株式会社代表取締役社長 平松庚三」という時の人が、この本のブックレビューを書き込んでいることぐらいか。

*1:この点に関連して、自分が昔から疑問に思っていることは、なぜ経営学における「ケース」や、法学における「判例解説」が、学術的な「業績」として扱われるのだろうか、ということである。偏見かもしれないが、両者はいずれも学術的業績とは言えないように思う。もっとも法学については、伝統的な研究スタイルはちっとも学問的でないという考え方がかなり以前からあって、こうした考え方から近年発展してきたのが、「法と経済学」である。やたらケースばかり扱う経営学も同様に、ケースに基づく伝統的な研究スタイルはちっとも学問的ではないということになって、長い目でみれば、企業理論を備えた新古典派経済学に侵食される部分が出てくるのではないかと思われる。実際、ベサンコ他『戦略の経済学』(isbn:4478374201)に見られるように、最近のアメリカの経営学界やビジネススクールでは、経営学・経営戦略の教育・探求においてでさえ、企業経済学の概念装置が活用されるようになっている。